銀橋が見えにくかった訳?

 オーケストラボックスの前を堤防のように長く伸びている銀橋。昭和6年(1931年)に「ローズパリ」で演出の白井鐵造が使ったのが宝塚では初めてとされています。宝塚以外では<エプロンステージ>と呼ばることが多い。名前の由来はフランス語の「pont d'argent」の直訳だと、<宝塚歌劇80年史>の歴史ミニ事典に書いてあります。

 この銀橋、お芝居でもショーでも、スターがそこを通る時は、まるで特別の瞬間のように、みんなしっかり見るかまえの体制になるからおもしろい。それがウキウキする嬉しい瞬間であることは今も変わらないし、宝塚を楽しむ醍醐味の一つだと思います。

 さてこの銀橋、旧大劇場でも旧東京宝塚劇場でも、1階席はともかく、2階席、3階席はとても見にくかった記憶がある。前の人が椅子の背もたれから離れて身を前に乗り出すと、後ろの人が見えなくなり、その人も前へ乗り出す。こうしてスターが銀橋を通る度に、前列からウェーブ状態で2、3階席が波打っていた。僕は昔から「なんでこんな見にくい劇場作ったのだろう?設計ミスだ!」と思っておりました。

 ある時、戦前の古い大劇場の絵葉書を古本市で見つけました。自分が知っている大劇場とはちょっと内装が違っている。緞帳に「クラブ白粉」と右から書いてある。この絵葉書の頃はまだ銀橋がないではないか。中央にオーケストラの囲いが舞台から出っ張った形で張り出ている。良く見ると左側に歌舞伎のような花道が客席に伸びている。しばらくこの絵葉書を見ていて、ハッと気がつきました。2階席の手すりは本舞台にはかかっていない。しかしオーケストラボックスには邪魔になっている。大劇場が建てられたのが大正13年(1924年)、銀橋が作られたのが昭和6年(1931年)大劇場は本舞台が見えるようにちゃんと設計されていたのだが、銀橋は本来見えなくてよい本舞台の前のオーケストラ、ならびに客席エリアに後から設置した為、見えにくいという原因があったのだということが判明した。なんてことはない、最初の劇場の設計に銀橋が含まれていなかっただけのことである。新しい大劇場、ならびに東京宝塚劇場で銀橋が良く見えるのは、初めから設計に入っているから当たり前なのです。

 旧東京宝塚劇場が建てられたのが昭和9年(1934年)、銀橋登場が昭和6年、それなら東京は銀橋が設計に入っていたのだろうか?それにしては見にくかったように思う。この辺はちょっと道理が通らない。察するに、銀橋が最初に使われたのが記録では昭和6年でも、まだ定着していなかったのかもしれない。銀橋は仮設的なもので、東京宝塚劇場着工の頃は、まだ本来あるべきものとは扱っていなかったのではないだろうか?

 余談だが、TAKARAZUKA SKY STAGE で「宝塚夫人」という1951年の映画を放映してくれました。春日野八千代主演で当時の大劇場や帝劇(東京宝塚はアーニーパイル劇場だったから、宝塚は帝劇で公演していた)の様子が見れるとても貴重な映像でした。大劇場の舞台で和物レビューをやっている様子が映るのですが、銀橋がすごく細くて驚きました。現在のように前にライトも付いておらず、ちょっと通るのが恐そうでした。

 もう一つ余談ですが、旧大劇場の一階客席の後ろに、2階席を支える柱がたしか4本ぐらいあり、その後ろに座るとけっこう邪魔だった記憶がございます。今となっては懐かしい話ですが。

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