東京宝塚劇場焼ける

昭和33年3月1日発行の「国際文化画報」に載っていた記事です。

『二月一日、午後四時十分頃、有楽町の一角に君臨する東京宝塚劇場一階舞台裏附近から出火、同劇場のステージ、一、二回客席、三階の楽屋など千九百十八坪を焼き、五時四十五分鎮火した。損害は約四億円。この日ちょうど土曜日と、第十回東宝ミュージカル二月公演の初日とぶつかり場内は満員、午後三時に開場して「アイヌの恋歌」を上演中に出火騒ぎとなったもので、火はたちまち客席に襲いかかり、約二千人は先を争って避難、大混乱となり、楽屋にいた俳優の中から三名の死者まで出す惨事となった。原因は舞台の上の火事場面で火の粉をちらすのに用いた「吹きボヤ」の火が燃え移ったといわれるが、何しろ東京のど真ん中、土曜の午後とあって”名物野次馬”も数十万の人出、このため、駆けつけた消防車も消火活動が万全を期せず、いたずらに被害を大きくしたのは考えさせられることである。』記事の文章より。

 宝塚に限らず昔は劇場の火事というのが案外あったようである。ある意味劇場は危険な場所だったのかもしれない。今ほど消防法もうるさくなかったのではないか?<火事の場面で火の粉をちらすために用いた吹きボヤ」ってそんな火が移ってもおかしくない物を使ってたなんて信じられない話である。今は舞台で火を使うには消防署に許可をもらいに行かなきゃいけないのに。出し物は宝塚歌劇ではなく東宝ミュージカルっだった。昭和33年1月花組公演のプログラムを見ると翌月のこの公演の告知が載っている。<第十回東宝ミュージカル2月公演「アイヌ恋歌」/「金色夜叉」>の二本立。出演者は三木のり平、有島一郎、高島忠夫、越路吹雪、他。火事があった2月1日が初日であるから、1回もまともに上演することなく中止になった不運な公演ということになる。

 劇場の修復工事は竹中工務店が即日着工した様で、50日近くで完成して、3月29日から星組公演「恋人よ我れに帰れ」/「花詩集」がおこなわれている。そのプログラムの最初のページに劇場再開によせて当時の東宝社長の清水雅氏が文を載せている。『............火事の後、私達が呆然としている最中、私達の心をふるい起こさせて下さったのは、あちこちから来る無数の手紙で、中には何千円という紙幣を入れて、復興費の一部にせよという有難い手紙が多数含まれていました。..........(中略)..........こうした手紙を受取って見て、初めて東宝劇場にはこの様な多くのファンがあつたのかと、びつくりさせられると同時に、何としても、この劇場を出来るだけ早く再興させる事が、こうした方々への義務であるという様な事を、つくづく感じさせられたものでした。殊にこうして金子を入れて頂いている手紙をよむと、大抵若い女性という事がうなずかれる様な字体でおそらく殆ど大部分が、宝塚歌劇のファンの方々でないかと思いますと、お小使いをセーブして送って戴いたこの御厚意には、全く涙なしには受取り得ないものがあります。.....』同じくプログラムには『完全不燃性劇場となった東京宝塚劇場』という説明も載っている。防火シャッターや、火災報知設備などが備わった事が書かれています。(以前は無かったんかい?)

 宝塚は大正12年(1923年)1月22日に公会堂劇場とパラダイス劇場を火事で失っている。また昭和10年(1935年)1月25日に旧宝塚大劇場が火事で場内全焼している。宝塚関係のどの劇場も一度は火事に見舞われていることになる。

 <スカラ座/東宝演芸場>の看板は旧東京宝塚劇場が取り壊されるまでありました。となりの三井ビルのところがまだ建設中になっていて何もない。

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